私は必死に走っていた。
荒い息を吐きながら、自分が今どこを走っているかも分からなくなりながら。

ただただ、がむしゃらに。
私は逃げていた。






二丁目のネコ
EX5






はやく!はやく!!はやく!!!はやく!!!!

恐怖と焦燥感に迫られた私の心の中に渦巻いているのはただ一言。

逃げなければ!


ただ遠くへ逃げることだけ考えて、古びたビルとビルの間を駆け抜ける。
角を曲がるのに失敗し、運悪く色あせたポリバケツに足をひっかけてしまった。
体勢をくずしそうになるのを無理やり立て直すして走り続けた。
ビルの裏手にはコンクリートの塀がそびえるように立っていた。
そんな・・・っ!!
絶望に足から崩れ落ちそうになる。
それを何かが倒れる派手な音が引きとめてくれた。
大きい音に身をすくませ、後ろを振り向いてみると、そこにはポリバケツが3つ、ゴミを散らかしながら倒れていた。
さっき足にひっかけたポリバケツだ。
私は倒れたポリバケツをぼんやりと見やる。
おそらく私が倒したポリバケツが他のポリバケツも倒してしまったのだろう。


その音を聞き付けたのか、さらに遠くから聞こえた男たちの怒号に私は泣きそうになる。
ぐずぐずしてなどいられない。
逃げなければ。
私は前のコンクリートの壁を、そばにあった一斗缶を踏み台にしてよじ登る。
おうとつの少ないコンクリートの壁に足を無理やりかけると、左の足首がズキリと痛んだ。
さっき崩した体勢を立ち直そうと踏み込んだときにひねってしまったのだろう。
私は痛む足首に顔をしかめながら、それでもどうにか壁を登りきる。
登ったら、今度は降りなくてはならない。
高い壁が今度は飛び降りるのを躊躇させる。
だが、さっき以上に近くで聞こえる男たちの自分を探す怒号に反射的に飛び降りる。
着地には成功した。
だが、痛んだ足首にはダメージが大きすぎた。

すぐには動くことができず、うずくまって痛みをやりすごす。
ややたってから立ち上がろうとするが、一度とまってしまった足には、今まで忘れていた疲れがどっと押し寄せてきていた。
気持ちはもっともっと遠くまで逃げたいのに疲れきった体ではもう一歩も動けない。
自分の呼吸の音がうるさくて何もかもがイヤになる。
息を吸うのももどかしく、ちっとも整わない息に真っ白になった思考の中で、ただ私は自分がもう走れないことを悟った。


もう逃げられない。
あいつらにつかまってしまう。
そしてきっと殺されてしまうんだ。


気がつくと、視界がぼやけていた。
いつの間にか涙が浮かんでいた。
涙を拭く気力もなくて、私はただ、涙を流れるにまかせた。
泣き出してしまったらもう立ち上がる力もわいてこないだろうと分かっていても、それでも涙はとまらなかった。

足が痛かった。
自分を追い詰める男たちが怖かった。
どうしてこんなことになったのか。
自分の不運が何より呪わしかった。

雑居ビルであの男たちが何をしていたのかなんて私は知らないのに。
何も見ていないのに。
ただ、近所でよく見かける猫を追いかけていっただけだったのに。




「にゃあ」
疲れきってうずくまっていた私のすぐ近くで聞こえた声にはっとして顔を上げた。
近所でよく見る黒猫だった。
人によくなれているこの猫は私が近づくと嫌がらず体をなでさせてくれる猫で、私の大のお気に入りだ。
そうだ。
今日は街中でふと見かけて、なんとなく追いかけたのだ。
そのときには、こんなことになるなんて思ってもいなかったけれど。
・・・そういえば、男たちが私を見て殺気をたぎらせたとき、この黒猫は鋭く鳴いてくれたんだった。
その鳴き声に私は我に返り、恐怖で固まってしまった体をとくことができたのだ。
私がここまで逃げることができたのはこの猫のおかげだった。
なんだか不思議だった。
この猫のせいでこんな事態におちったのに、危ないところで助けてくれたのもこの猫なのだから。

ぼんやりと私が見つめていると黒猫はもう一度鳴いてから、私の手の甲をぺろぺろとなめ始めた。
くすぐったくて、なんだか慰められた私は黒猫の背中をなでた。
「にゃあ」
もう一度猫が鳴いた。
少し離れてからこちらを向く。
ついて来いということなのだろう。

助けに来てもらえたのだと思ったら、元気が沸いてきた。
もう一歩も動けないと思った足は、痛みはあるものの動くことができた。
そうして一歩を踏み出したそのとき―――男たちに見つかってしまった。


5人の男たちは一様に刃物を持ち、私と黒猫を壁へと追い詰める。
黒猫は私をかばうように私の前に立ち、男たちを威嚇する。
じりじりと男たちは私と黒猫へと近づき、いまにも襲われそうになったとき、黒猫は果敢にも男の一人に飛び掛り鋭い爪で男の顔面を引っかいた。
男は悲鳴を上げ、刃物をめちゃくちゃに振り回す。
それが合図になり、一斉に男たちが殺気をたぎらせたとき、どこからか何かが飛んできた。
私がそれに気づいたのは男の一人が昏倒してからだった。
男のそばにはサッカーボールが転がっていて、私は突然のサッカーボールに困惑した。

「てめーら女の子一人によってたかってなにやってんだ!!」
「快斗くん!無事?!」

怒鳴り声と共に私と同じ年くらいの制服を着た男女が走ってやってきた。
一人は聞いたこともない名前を呼びながら。
私は突然に闖入者に状況も忘れて『誰?』と首をかしげてしまった。

あとはもうあっという間だった。

髪の長い女の子はとにかく強かった。
武道をやっているようで無駄のない動きで、男の子が転がっているサッカーボールを蹴って男1人を倒す間に3人も倒してしまった。
本当にあっという間の出来事で、私はただぽかんとしてしまった。

「大丈夫?」
女の子のかけてくれた声が優しくて、私はやっと自分が助かったのだと分かった。
とたんに気が抜けて―――意識が闇に落ちた。






次の日、私は学校からの帰り道を少しびっこをひきながら歩いていた。 左足には昨日治療してもらったために白い包帯が巻かれていた。

―――あれから、私が目が覚めたらそこは病院だった。
足はいつのまにか治療してあり、白い包帯が目にまぶしかった。
私に事情聴取に来たショートカットの凛とした女性の刑事さんが事件のあらましを教えてくれた。
刑事さんが言うにはあの黒猫の名前は”快斗”というらしく、助けに来てくれた男の子方が飼い主らしい。
なんと男の子は有名な高校生探偵で”快斗”は猫なのに、飼い主と一緒に危ない事件に関わり解決に尽力しているらしい。
やっぱり私はまきこまれただけみたいだった。
事件に巻き込んで申し訳なかったと恰幅のいい警部さんに深々と頭を下げられてしまった。


家への帰り道を歩いていたら、塀の上に見慣れた黒猫がいた。
”快斗”だ。
近づくと、向こうも気づいたのか、私も足元へやってきて体を足へこすり付けてきた。
もしかして、お詫びのつもりなのだろうか?

「あんまりあぶない事しちゃダメだよ?」
背中をやさしくなでてやると黒猫はバツが悪そうにそっぽを向いた。
その姿がかわいくて私はくすりと笑う。
「また危なくなったら助けに来てね」
私の問いに黒猫はもちろんだとでも言うように鳴き声をあげたから、それで許してあげることにした。






END




名もなき少女は平凡な日常を謳歌していた。
黒猫がきっかけで危険な事件の当事者へなってしまった少女。
その少女を救ったのも、また黒猫だった。



名もなき少女の逃亡中の出来事について。 2008.02.22