なぜこんなところに自分はいるのだろうか。
快斗は現実から逃避するように大きく息をついた。






二丁目のネコ
EX6






快斗がぎゅっと目をつぶっているのは、ここがどこであるかを認識することを固く拒んでいたからだ。
その日はよく晴れた日で、本来ならばいつものように近所をぶらぶらと散歩し、どっかのムカつく駄犬をひやかして遊び、お気に入りの屋敷の塀の上で気が済むまで昼寝という予定だったというのに!
いったいなぜ!
自分の何が悪かったというのか!




快斗は動物病院の待合室で快斗はケージに入れられ、いちおー現在の主人ということになっている新一の膝の上にいた。
待合室の端々から聞こえる犬や猫の鳴き声がうるさい。
緊張でしっぽがぴんと立ち飼い主に宥められている犬もいれば、何をされるところなのか良く知っているのであろう猫がケージの中で低く唸ったりと騒がしい。


騙され抵抗も封じられ、ケージの中で大人しくしているしかない状況に快斗は耐え切れずにいた。
何より快斗は実はケージに入れられるのは初めてだ。
前の主人はかなり人より奔放で快斗を自分の息子のように扱ってくれていたため、こんな風にペット扱いされるのはこれが初めての経験なのだ。
快斗は恨めしげに現在の主人を見上げるが、本人はこちらに気づきもせずに読書に没頭中だ。
そういえば先日医療ミステリー小説の続編が映画化に合わせて発売したばかりだった。

おのれ覚えていろ!
今度手加減なしでおもいっきりひっかいてやる!!

快斗にはぎりぎりと心のなかで負け惜しみを言うのが精一杯だった。



今から思えばおかしいことばかりだったのだ。
10日ばかり前に届いた郵便物を見た新一は、以降おもいっきり行動が不穏だった。
テレビを見ていても新聞を読んでいても、快斗の一挙手一投足を気にしていた。
おそらくこちらの行動パターンを探り罠に嵌めようと虎視眈々と狙っていたのだろう。
だが、快斗だって主人のおかしい言動を訝しく感じ警戒していたのだ。
だというのに、新一にあっさり捕まりこのざまだ。
死ぬほど悔しい。

だいたいやり方が汚すぎる!!
まったく、思い出すだけで忌々しい。


どんなときも余裕を持って常に紳士たれ。
前の主人に生まれたばかりのころから叩き込まれた矜持だ。


そのせいか快斗は女性一般に甘く、かつ幼い子供にも弱かった。
生き物をよく理解出来ていないやっと歩きはじめたばかりの子供にぬいぐるみのように扱われたときも、結局噛み付くことも引っ掻くこともできなかった。
本来はぬいぐるみとは違うことを相手に教えるために多少は痛い思いをさせなければならなかったというのに! それを覚えていたのだろう新一が選んだ方法は、工藤宅の隣の恰幅のよい博士のところへよく遊びに来る小学生を使うことだった。
子供3人を相手に快斗はあっさりとつかまってしまったわけだが、そのこと自体は仕方ないことだと思う。
自らの矜持を曲げないことは、むしろ誇らしいことだ。
だが、まんまと新一の罠にひっかかったことが悔しくてたまらない。
ケージに入れられたときに新一が浮かべた勝ち誇った笑みを快斗は当分忘れられそうになかった。



どれだけ過去を悔やんでも、現在の快斗は檻に入れられ動物病院の中。
それはもうどうしようもない事実であり、現実だ。
はぁ・・・。
自分はなぜこんなところにいるのだろうか。
快斗は再び大きく息をついた。
しかもうれしくないことにケージは新一のひざの上だ。
どーせならかわいい女の子のひざの上とかならまだいいのに。




「工藤さーん」

ソプラノのよく通る声が診察室から響く。
ぱたんと読んでいた本を閉じた新一が快斗が入っているケージを持ち上げた。
診察室の扉を親の敵でも見るように快斗は忌々しく睨みつけた。

自分はどこも悪くないのだ。
痛いところもないし身体の調子も上々だ。
なのに、なぜ自分は医者などにかからないといけないのか。
予防接種などくだらない。
まったくもって理不尽だ!!!!

ここから逃げることはできるだろう。
相手は自分を所詮猫だと思っている年若い獣医。
隙をついて逃げ出すことも、ついでに相手の手に引っかき傷を残していくこともしようと思えばできるだろう。

だが、この動物病院の獣医は年若い女性の獣医だ。

彼女に怪我を負わせるなどそんなことは快斗には絶対にできない。
その時点で、注射を打たれる未来は確定してしまっているというわけだ。
新一のその抜かりなさが歯軋りがしたくなるほど憎らしい。
言葉が話せない快斗は低くうなり声を上げて現在の飼い主を睨上げることしかできなかった。
だが新一はこちらの視線などには全く気づいていない。


おのれ、本当に覚えてろよ!!!!




そうして、パタンと診察室の扉が閉まった。






END




黒猫の黒星。
飼い主は思った以上に黒猫のことをよく把握していた。
黒猫は固く復讐を誓い、翌朝それを果たした。



黒猫が置かれている理不尽な状況について。 2009.08.22(半年遅れ)